続日本100名城 石垣山城
エブリイで神奈川県小田原市早川にやって来ました♪
実はここに来るのは3度目なんですよね~。
1度目と2度目に来た時は雨が降りやまないから、城には入らず引き返してしまったんですよ。
やっぱり城巡りは天気が良い時に気持ちよく歩きたいやん。
普通は仕事で毎日忙しくて、少ない休みの日にやっと来られた城で、雨降って来たからと言って何も見ないで帰ろうって出来ないじゃないですか?
時間使って交通費使って苦労して来たのに、雨降ってるからって帰れる訳がない。
そりゃ~悪天候を我慢して観光しますよね。
しかしです・・・
僕の行動は間違ってなかった。
城に入らず2度も引き返し、3度目の今回は晴天。
絶景に出会えましたよ。
待ったかいがありました!!
まずは駐車場にエブリイを停めて、一夜城 Yoroizuka Farm(ヨロイヅカ・ファーム)へ。
日本屈指の菓子職人鎧塚俊彦さんの「一夜城 Yoroizuka Farm(ヨロイヅカ・ファーム)」は、地元・早川の農家のかたと手を携えて、小田原の食材をふんだんに取り入れた、ここでしか味わえない料理やスイーツを提供しています。
だそうですけど、万年ダイエッターの僕はスイーツ食べられんのよね~。
では待ちに待った、石垣山一夜城へ入ります。
南曲輪の石垣
いきなり素晴らし野面積みの石垣です。
この辺りでは城としての役割を終えた際、城の一部を壊す「城割り」をするそうで、石垣が崩れてるのはその為だそうです。
二の丸
本丸登口
二の丸を上から見下ろします。
本丸
これですよ!!この景色!!
晴天を待ったかいがありました!!
石垣山城からの小田原の街と相模湾の景色!!
天守台
天守台から本丸を見下ろします。
西曲輪
井戸曲輪
淀君化粧の井戸とも伝わる井戸で、周りを囲む石垣が圧巻!!
石垣山は、本来「笠懸山」と呼ばれていましたが、天正18年(1590)豊臣秀吉が小田原北条氏を水陸15万の大群を率いて包囲し、その本陣として総石垣の城を築いたことから「石垣山」と呼ばれるようになりました。
この城が、世に石垣山一夜城または太閤一夜城と呼ばれるのは、秀吉が築城にあたり、山頂の林の中に塀や櫓の骨組みを造り、白紙を張って白壁のように見せかけ、一夜のうちに周囲の樹木を伐採し、それを見た小田原城中の将兵が驚き士気を失ったためと言われています。
しかし、実際にはのべ4万人が動員され、天正18年4月から6月まで約80日間が費やされました。
秀吉は、この城に淀君ら側室や千利休、能役者を呼び茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えたりしました。
この城は、関東で最初に造られた総石垣の城で、石積みは近江の穴太衆による野面積みといい、長期戦に備えた本格的な総構えであったといわれ、度重なる大地震にも耐え、今日まで当時の面影が大変よく残されています。
引用:小田原市
次に移動しま~す♪
続日本100名城 興国寺城
やって来たのは静岡県沼津市根古屋。
三の丸
駐車場に到着~♪と思ったら、そこはもう興国寺城の三の丸でした。
そして歩いて道を奥に進むと・・・
二の丸
本丸
本丸内に高尾山穂見神社
根古屋の力石
さて、もう興国寺城は見終わったかな?
いや、土塁に登れそう。
本丸大土塁
大土塁を登ると石垣がありました。
伝天主台
伝天主台からの眺め癒されます~。
大土塁の奥にまだ見どころは続きます。
大空堀
大空堀に洞窟か?これはやばそう。
そして最後に・・・
北曲輪
北曲輪の先からは東海道新幹線の走ってる音がします。
すぐに見終わる城かと思ったけど、奥へ奥へと見どころが出て来ましたね。
興国寺城は、根古屋と青野の境にある、篠山という愛鷹山の尾根を利用して築かれている。この城は、戦国時代に関東一円を支配した北条氏の祖である伊勢新九郎盛時(北条早雲)の旗揚げの城として名高い城である。
北条早雲は初め伊勢新九郎盛時と称し、室町幕府将軍の申次集を務めたが、駿河の守護今川氏とは、姉北川殿が今川義忠の正室というつながりがあった。文明8年(1476年)義忠が急死すると、その後の家督争いで甥の今川氏親を助けた功により、長享2年(1488年)頃、富士郡下方12郷を与えられ、興国寺城主となったとされる。
この後、盛時は明応2年(1493年)に伊豆韮山の堀越公方足利茶々丸を襲って伊豆国を攻め、戦国大名としての第一歩を踏み出すが、その後、興国寺城は戦国大名による領地争い境界の城として争いの渦中におかれ、今川氏、北条氏、武田氏、豊臣氏、徳川氏の勢力下となり、慶長6年(1601年)徳川家康の家臣天野三郎兵衛康景が1万石の城主となる。しかし康景は家臣をかばい自ら逐電してしまったため、慶長12年(1607年)興国寺城は廃城となった。
コメント