続日本100名城 本佐倉城 大多喜城

城巡り

関東の天気予報を見ると東京と千葉が雨降らなそうだったので千葉にエブリイで向かいました。

ところがまたエンジン警告灯が点灯。

修理したばかりなのに・・・。

ま~すぐ故障する訳ではないらしいので進みます。

なんかね~エンジン警告灯が点灯してる時としてない時があるから、修理屋に持って行っても今は点灯してないからお手上げですって言われるんですよ。

こんな場合どうしたら良いのか知ってる方いましたら教えて下さい。

続日本100名城 本佐倉城

千葉県佐倉市に来ました。

駐車場にエブリイ停めて本佐倉城へ入ります。

城山

城山から駐車場を見下ろします。

奥ノ山

虎口から見渡せる田園の良い景色です。

本佐倉城は下総守護千葉氏が文明年間(1469~1486)に築城し、天正十八年(1590)に豊臣秀吉に滅ぼされるまで関東有数の大名千葉氏の居城でした。
 千葉氏は享徳三年(1454)に始まる関東の戦乱によって千葉(現千葉市中央区)の城を捨て、新たな城を印旛沼に面した交通の拠点である「佐倉(現酒々井町本佐倉)」に移しました。
 16世紀前半には城下町も整い、本佐倉城は下総の政治・経済・軍事・文化の中心として繁栄します。
 天正十八年(1590)年、豊臣秀吉が小田原を攻めると、北条氏の支配下に入っていた千葉氏も共に滅亡、本佐倉城は徳川家康の支配となりました。
 現在でも本佐倉城跡は大規模な空堀・土塁・櫓台に守られた郭群などが明瞭に残っており、戦国時代の息吹が感じられます。
 平成10年9月には重要な文化財として国指定史跡となり、その保存整備が進められています。

引用:酒々井町教育委員会

次に移動しま~す。

続日本100名城 大多喜城

千葉県夷隅郡大多喜町大多喜へ来ました。

駐車場代200円払ってエブリイを停車。

少し登ると大多喜城です。

大多喜城分館

徳川四天王のひとり、本多忠勝を初代城主とする 近世大多喜城の本丸跡に城郭様式で建設した博物館。
「房総の城と城下町」を常設展のテーマとした歴史博物館で、房総の中世・近世の城郭とそれに関わる武器・武具や調度品・古文書及び武家社会や城下町の生活などに関する資料を展示しています。

雨の降らない夏でも、満々と水をたたえ「底知らずの井戸」と呼ばれていた。

大多喜の中世の頃の地名は、資料の中に小田喜と見られますので、大多喜城も、その頃は小田喜城ないしは小田喜の城と呼ばれていたと思われます。
16世紀の前半代に武田氏が入城したと言われていますが、天文期(1532~1555)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後4代にわたり、上総正木宗家の居城として発展します。
その後、1590年(天正18年)に北条氏の小田原城が豊臣秀吉に攻め落とされると、徳川家康は江戸城に入り、小田喜城を家臣の本多忠勝に与えて安房の里見氏の勢力をおさえようとしました。
当時の城のようすについて、1609年(慶長14年)にここを訪れたスペイン人のドン・ロドリゴは、「城は高台にあって濠に囲まれ、城門は大きく全て鉄でできており、厳重に警戒されている。また、城の内部は金や銀の配色で美しく、立派な武器庫もあった。」(日本見聞録)と、驚いています。
城主は本多氏3代のあと、阿部・青山・稲垣氏へと引継がれ、1703年(元禄16年)松平(大河内)正久となりました。松平氏は9代続き廃藩置県を迎えます。

引用:大多喜城分館

帰りはもう何年振り?ってくらい久し振りの都心を横断。

そして東京に上京して13年間住んだ、東京生活の原点とも言えるボロアパートを見に行ったみた。

しかし・・・と言うか、やはり小さなマンションに建て代わってた。

家賃2年も滞納させてくれたり、お惣菜を差し入れしてくれたり、親切にしてくれた大家さんはどうしたんやろ。

もう80代やろうし生きてないのかな~?

格闘家目指して上京してからダンスが職業になった激動の時期を過ごしたボロアパート小林荘。

思い出すと泣けてくるぜ。


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