続日本100名城 杉山城
埼玉県比企郡嵐山町杉山にエブリイでやって来ました♪
駐車場にエブリイを停めます。
駐車場あるってホント有難いですよね。
ここから杉山城へ歩いて向かいます。
中学校と体育館の先に有ります。
杉山城へ到着しました。
大手(出郭)
土塁と空堀(からぼり)とで仕切られた郭を山の高低差を利用しながらたくみに配置して、小人数で立てこもり、多数の敵を迎えうつためのまさに実戦に備えた要塞です。
本郭
本郭から下の景色を見下ろします。
井戸跡
大石で覆われた井戸は今でも年間を通じて水が渇れることはありません。
戦国時代の初めころ、関東では関東管領山内上杉氏と同族の扇谷上杉氏による抗争がありました。「長享の乱」と呼ばれる一連の戦いのなかで、当時の嵐山町は、山内上杉氏の拠点である「鉢形城(寄居町)」と扇谷上杉氏の拠点である「河越城(川越市)」の中間にあり、長享2年(1488)には須賀谷原(嵐山町)で多くの戦死者を出す激しい戦闘がありました。
杉山城跡から出土した遺跡の年代は、この戦いの少し後にあたります。
そのことから杉山城は山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城したものと考えられます。
引用:杉山城
5キロほど移動します。
続日本100名城 菅谷館
埼玉県比企郡嵐山町大字菅谷へ。
菅谷館に到着しました。
出枡形土塁
本郭
都幾川に面した南側は断崖、その上に本郭が位置します。
畠山重忠像
源平の合戦や、その後の鎌倉時代に活躍した鎌倉時代の有力武士「畠山重忠」の館跡とされます。菅谷館については、鎌倉幕府の歴史書である『吾妻鏡』に畠山重忠が北条氏の策略によって命を落とす二俣川(横浜市)に向かう際、「男衾郡菅谷の館を出立する」という記事が見られます。
しかし、現在見られる菅谷館跡の姿は300年後の戦国時代に築城された菅谷城であり、発掘調査でも当時の面影は見られません。
昭和48年に国の史跡に指定され、平成20年には松山城・小倉城・杉山城と共に「比企城館跡群菅谷館跡」として名称が変更されています。
都幾川の断崖に面した平城で、総面積は約13万平方メートル、東側と西側の外堀は自然の深い谷を利用し、都幾川に面した南側は断崖、その上に本郭が位置します。
北側に二ノ郭、三ノ郭・西の郭がクモの巣の様に並ぶ輪郭式の縄張りとなっており、更に外側は自然の浸食谷によって何重にも守られています。
また、虎口(郭の出入口)付近では、土塁と曲折によってくいちがいを設けるなどの防御の工夫がされています。
引用:嵐山町
雨が降って来た~。
こう言う時、ホンマ車は有難いわ~。
徒歩やバイクでは雨は恐怖やもんな。
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